ゆんたく井の頭*沖縄レポート
5月10日から14日まで多摩の仲間10人で沖縄にいってきました。ゆんたく井の頭からも2人参加してきましたので、それぞれから沖縄報告をしてみたいと思います。よかったら読んでね。
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まずはわたし(G)から前半2日間に訪れた石垣島でのことを書いてみたいと思います。
**石垣島報告**
■自衛隊基地予定地
10日の夕方近く、石垣空港についた。沖縄の5月の日没は19:00くらいだそうで、まだまだ数時間は明るい。そして陽射しが強烈。でも風がとても爽やかだった。
わたしたちはまずバンナ公園を目指した。
バンナ公園は市街地北部に位置する標高230メートルの山・バンナ岳を中心に開発された公園。石垣島を見下ろすことができるし、竹富島や八重山離島も見られる島の絶景ポイント。
公園にある渡り鳥の観測のための高台から自衛隊基地の予定地を見た。
山の裾野の横あたりが予定地。すごく広い敷地。そして緑豊か。
近くにはダムが3つもある。ここで暮らす人びとの生活用水の水がめ。
ここに、弾薬庫や演習場もつくられるのではないかと言われている。
詳しくはこちらをご参照ください。
南西諸島防衛について(琉球弧(南西諸島)ピースネット)
https://peacenet-nansei-islands.jimdo.com/
まだ何も手がつけられていない予定地を見て愕然とする。こんなのどかなところに基地をつくろうとしてるのか。
石垣島のこのあたりは、戦後はパイナップル工場がいくつもあって台湾から出稼ぎに来る女性もたくさんいたのだとか。
自衛隊予定地とは違う方向。西表島に向かって立つと、夕陽が綺麗だった。
日没の直前。その時の写真。肉眼とは少し違うけど幻想的な写真が撮れた。
石垣島は八重山と呼ばれる地域にある。八重山の歴史を調査しておられる大田静男さんが、今回、石垣島を案内してくださった。
戦時中、石垣島にいた日本軍は自分たちの生存と戦略のために、人びとを別地へ強制的に移動させた。移動させた場所はマラリアの犠牲になる場所だということを知っていてのことだった。これは、戦時には軍が最優先であり、そのためには自国の人びとであっても犠牲を強いられることの証左である。
島で育てられていた牛などは、元の場所に残されていたそうだが、それを軍が食料としたのだと大田さんから教えてもらった。
「軍の作戦展開の必要性から住民が悪性マラリアの有病地域である石垣島、西表島の山間部への避難を強いられ・・・三千余名が終戦前夜に無念の死を遂げ」たと記述された慰霊の碑文が掲げられていた。でも軍隊の、さらには日本国の責任が明確にされていない、どこかもやもやとした文面だった。
こうした歴史を知るにつけ、軍隊については相当に厳しく突き放して考えなければならないと改めて強く感じた。
やはり、軍隊は人びとを守らないし、それどころか軍隊のためには平気で犠牲を強いるそういう存在なのである。
同時に、軍隊は、どこかの誰かを殺傷するために存在しているのである。
こうした本質的なことに、沖縄に行くと、向き合うことになる。
戦時中、日本軍がここ石垣島でやってきたことを踏まえた上で、これから日本の自衛隊がやろうとしていることを考えると、それは過去の焼き直しに過ぎないように思う。
自衛隊基地強化と、辺野古新基地や高江ヘリパッドといった米軍基地の問題とは、日本社会での捉えられ方が違う。基地反対運動の現場でも、両者には温度差というか隔たりというか壁のようなものがある。もちろん、どちらも本質的には「軍隊と人びと」の問題ということで共通しているわけだけど、やはり戦後の長い時間を経て、現在日本社会では自衛隊を容認する人が圧倒的にマジョリティであって、そういう中で、自衛隊基地に反対の声を真正面からあげる運動は広がりにくいという現実があるのだ。
まったく大したアクションはできていないのだけど・・わたしも自衛隊基地強化反対、南西諸島防衛反対の運動には注目してきたし、問題意識も共有してきたつもりだ。でもそれをどのように広げることができるのか、広げられない現実を「理解」してしまっているからこその弱気が生じて、自分の中で確信を持って発信したりできないでいた。
そうした状況から脱出したい気持ちもあって、次に沖縄へ行くときにはどうしても自衛隊基地強化の対象となっている島々に行きたいと思っていた。
石垣島に行ってみて、フラフラしていた私の軸が根を張り出したような気がしている。私が自衛隊基地に反対することが「腑に落ち」るという瞬間があったからだ。自分の意思なのに、自分の中で腑に落ちるというのも変かもしれないが、「ああ、だから私は反対なんだ。」とストンと気持ちが固まったのだ。
やはり、軍隊は人びとを守らないし、軍は自身を優先して平気で人びとに犠牲を強いる。そして軍とはどこかの誰かを殺傷するために存在している。そのようなものをなくしこそすれ増やしてはならない。強化してはならない。絶対に。
ここでわたしは、石垣島の人たちと、沖縄の人たちと、おなじ輪の中にあるというようにして話してきた。だけど、この戦前の焼き直しという捉え方をしたときには、同時に、本土の防衛のために沖縄を利用しようとした、戦場にしようとした、そして結果としてそうした、という事実もふまえないといけない。と思う。
米軍基地の偏在という現在の状況も、その意味では、戦前の焼き直しというか戦前からの連続なのだ。これはずっといわれてきていることで多くの人が受け止めてることだと思う。
こうして過去から現在までの現実を直視して未来を見つめるとき、あまりにもその現実は重たくて、なにをいうのもしらじらしく思えるし、自分の薄っぺらさやちっぽけさを自覚するばかりだ。
だけど、それでも、こうした葛藤を通して、現時点の自分の中で腑に落ちたことを信じてみたいと石垣島で思った。
■自衛隊基地反対*地元の人の声
翌日、わたしたちは、自衛隊基地建設の予定地に向かった。
向かう途中、基地推進側ののぼり旗を数本見かけた。
予定地の一角に到着すると、「みんなみんなの豊かな命を守りたい 私たちは、自衛隊のミサイル基地配備に反対いたします!」という大きな看板がわたしたちを出迎えてくれた。緑の巨大な敷地に水色の看板はひときわ目立っていた。そこには開南公民館と書かれていた。
みんなで、そこで写真を撮ったりしていると、基地建設反対の運動をされている女性が通りかかり、私たちに話しかけてこられた。
ここでは、4つの公民館で反対の声を上げているのだそうだ。公民館が自治会のような役割を果たしているのだろうか。
小さなコミュニティの中で、基地建設に反対か賛成かを明らかにすることがいかに厳しいことかということを話してくださった。小さければ小さいほど、コミュニティ内の結びつきは強く、その中に分断線が引かれるということがどれだけ過酷なことか。こうしたことは、都会に住む私にはなかなか実感を伴って理解できないけれど、その切実さは少し分かったような気がした。
それでも反対の声を上げておられる。少しでも理解したい。
遠く離れた本土の、東京でも自衛隊基地強化の問題を広め、また深めて行きたいと思った。もっと言うと、軍と人びと、ということについてみんなと考えていけたらいいなと思っている。具体的な事でいえば、わたしの暮らす多摩地区には米軍横田基地があるし、自衛隊基地もある。自分たちの暮らす場所での問題にも真正面から向き合いつつ、沖縄の島々の皆さんとも繋がっていけたらと思ったりしている。
ゆんたく井の頭でも、具体的に何かしたいと考え中です。